伊賀流の本拠地である伊賀と甲賀流の本拠地である甲賀は、それぞれ現代の三重県伊賀市と滋賀県甲賀市に存在していました。地理的に言うと、この二つの町は山一つを隔てて隣接しているのです。いわば同業者である伊賀と甲賀は、歴史上は敵対すること無く同業者のよしみで協力関係を築き上げていたと言われているのです。


伊賀と甲賀による代理戦争
 では、なぜ山一つ越えた隣人である伊賀と甲賀は犬猿の仲とされてきたのでしょうか? そこには、戦国時代のしがらみが存在しています。伊賀忍者は、服部半蔵によって徳川家康の配下として仕える機会を得ました。一方、甲賀忍者は豊臣秀吉によって徳川家の監視を行っていました。豊臣と徳川は、織田信長なき後の日本の覇権を巡って争った関係にあることは史実に有る通りです。つまり、伊賀と甲賀の対立関係はそれぞれの主人であった徳川と豊臣の対立関係が投影されたものなのです。


フィクションにおける伊賀と甲賀の対立
 様々なフィクションの中で、伊賀と甲賀の対立関係を題材にした作品は数多く存在していますが、幅広い年齢層に認知されている作品としては「忍者ハットリくん」が上げられます。ハットリくんことハットリカンゾウは伊賀出身の少年忍者で、ハットリくんのライバルであるケムマキは甲賀出身の少年忍者として登場します。最近では、山田風太郎の「甲賀忍法帖」を原作とした「バジリスク〜甲賀忍法帖〜」や「SINOBI」で、伊賀と甲賀の長となった男女の悲恋を描いた作品で伊賀と甲賀の対立関係が描かれています。


〜伊賀を知る〜
伊賀忍者
 伊賀忍者は、現代で言うところの傭兵に当たり「契約による主従関係」以上に関わらないという、ドライさを持っていたと言われています。伊賀忍者たちは、「上忍三家」と呼ばれる服部・百地・藤林の三氏によって統率されていたと言われています。伊賀忍者にとって掟は絶対のものであり、忍者を辞めて里から出る「抜け忍」を厳しく取り締まったのです。


何故抜け忍を許さなかったのか
 職業選択の自由がある現代と違う戦国時代とはいえ、なぜ伊賀はこれほどに抜け忍に厳しかったのでしょうか? それには織田家との敵対に答えがあります。織田信長の息子・信雄は伊賀からの抜け忍の密告を受け、伊賀攻めを行いました。しかし、信雄の軍は伊賀忍者の猛反撃を受けて敗走することになります。息子の失態を知った信長は、この戦いから二年後に自ら挙兵して伊賀に攻め込みます。この時、伊賀と協力関係にあったはずの甲賀の有力者であった多羅尾光俊が織田側に寝返り、伊賀忍者から抜け忍を出してしまったのです。これによって伊賀忍者は大敗を喫してしまいました。この織田家と伊賀忍者の戦いを「天正伊賀の乱」と呼びます。この時の苦い経験が抜け忍に厳しくなったきっかけとなったのです。ちなみに、伊賀の敗北の原因となった多羅尾光俊は後に本能寺の変で自国に帰還しようとした徳川家康の守護にも力を貸し、豊臣家・徳川家と時代の流れに応じて主君を変えていったとされています。


現在の伊賀
 2004年に6市町村の合併で誕生した伊賀市は、三重県の観光地として知られています。伊賀市は松尾芭蕉の出身地でもあるため、忍者と俳聖生誕の地としてその名を知られています。特産品としては、高級和牛である「伊賀牛」と忍者の保存食であった「かたやき」があります。伊賀市の有名な祭りには10月24・25日に行われる「上野天神祭」があり、「だんじり」と呼ばれる山車を引いて市中を回る「ダンジリ行事」は重要無形民俗文化財に指定されています。


〜甲賀流を知る〜
 一方、甲賀は元々守護大名の六角氏の配下だった侍がルーツであると言われていて、その為か忠誠心に厚かったとされています。里の運営も、伊賀と違い多数決による合議制を導入した「惣」と呼ばれる会議を持っていたといわれています。
薬売りと甲賀
 甲賀忍者は、諸国に散らばり情報を収集していたと言われています。戦国時代の日本では、他所から来た人間に対する警戒心が強かったので甲賀忍者は薬売りに扮していたと言われています。製薬技術が普及していなかったこの時代は、富山などの製薬が盛んな土地から各国を回って、置き薬売りをすることは珍しくなく警戒心を抱かれにくいという利点があったのです。


現在の甲賀
 甲賀市も伊賀市と同じく2004年の「平成の大合併」で誕生した町です。甲賀市の読み方は「こうか・し」で濁らないのですが、忍者の甲賀は誤読によって「こうが」という読み方が定着していたこともあって、合併の際に読み方に対する投票が行われています。甲賀市の名物には、忍者の里だけでなく大合併で組み込まれた信楽町の信楽焼きなどがあります。また、甲賀忍者の名残からか甲賀市は製薬業が盛んな土地でもあります。



ホームへ

inserted by FC2 system